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人生に疲弊したときのミニマルのすすめ

僕たちは現代の大量消費・情報社会に疲弊している。

そしてさらに問題なのは、多くの人がそれに気づかず、自分の人生を生きていないと感じていることだと思う。

公務員生活を送っていた頃、僕自身も全くそんなことは気にしてなかった。安定した仕事、愛する家族。常識的に考えればかなり恵まれている側の人生ではないか。

それでも、日々の生活の違和感は拭えなかった。満たされているようないないような。

そして週末に必ずと言いほど襲いかかる死の衝動。

このままではいけない、いいはずがない。でもどうすれば?

成す術がなくなって途方に暮れた僕は、必要に迫られて公務員生活に幕を閉じることにした。

目次

みんなもそんな違和感を抱えてるんじゃないの?

僕はときどき、飲み会の席などでよく、なぜこの仕事をしているのか、嫌にならないかを聞くことがあった。

総括すれば、ほとんどの人が、食べていくために仕方なくやっているという回答に終始する。

どうせやらなきゃいけないことだから自分なりに工夫して楽しんでいるという猛者もいる。

だから、そんなみんなが羨ましくもあった。嫌味というわけではなく、食べていくためと割り切って何も考えずに目の前の仕事に打ち込みたかった。

でもこんなことをあと35年も続けるのかと思うと絶望した。結局、僕が公務員を辞めた一番の理由はそこなんだと思う。

突然辞めたものだから、妻との関係もギクシャクし始め、しばらく経って離婚した。

ミニマリストを妬んでいた

安定した仕事があって、家族がいるという満たされた生活を送っていた反面、少ないもので暮らす『ミニマリスト』なる人々を妬んでいた。さぞかし生きやすいだろうと思っていた。

つまりは憧れていたのだ。

ミニマリストの定義は人それぞれだと思うが、それはモノだけにとどまらず、仕事、人間関係など、あらゆる面で身軽である人のことだと僕は定義する。

そして図らずも、仕事と家族を手放した現在の僕がいる。

だから最初に手放したのはモノではなく仕事だ、そして家族、最後に身の回りのモノをほとんど処分した。

僕には余白が必要だったんだと思う。

人は結局、あるべき姿に落ち着くのかもしれない

僕は自分のキャパシティを勘違いしていた。それはもう大いに。

実際、器用貧乏な面があるため、ある程度の事は器用にこなしてしまう。仕事にしろ人間関係にしろ、「こうやればいいんでしょ?」ってことを何となくこなしていた。

でもそれと自分のキャパの大きさは全く関係なかった。

精神はあらゆる問題に支配され、生きた心地がしなかった。何かを変えなければならないという思考で僕の心は埋め尽くされていた。

だから最終的には全てがなくなった。

本来の僕のキャパで抱えられるものだけが残ったのだと思う。とっくに限界は通り越していたのだ。

最初に捨てるもの、それは『情報』

Appleは本当にとんでもないものを世に送り出してくれたなと思う。

僕たちは今、「豊かさ」に恵まれた時代に生きている。欲しいものはスマホひとつで手に入り、ニュースやSNSを開けば、世界中の情報が一瞬で流れ込んでくる。

一見すると、それはとても素晴らしいことのように思える。しかし、その裏側で、僕たちの心は確実に疲弊している。

毎日のニュース、SNSの投稿、他人の成功談…。本来必要のない情報まで浴びるように受け取ってしまい、脳が処理しきれずに疲弊する。

そして僕らは過去や未来に囚われ、「今」というこの瞬間に集中できなくなっている。

公務員時代の僕がまさしくそんな感じだった。

休日はダラダラとショート動画で時間を潰し、平日の夜はなんとなく人生に正解があるような気がして、あらゆる本に手を出しては読了できなかった本が積まれていった。

だから気づいた。必要なのはもはや情報ではない。ただ、やりたいと思ったことをやれるだけの心の余白が必要だった。

ミニマライズの効用:実体験

仕事について

仕事については、かなりラクになったと思う。

いわゆるブルーワーク的な仕事に転職したが、タスクが必ず一日で完結するので休日や余暇時間に仕事に対して考えることが無くなった。

公務員時代はデスクワークだったが、どうしても一日でプロジェクトを完結させるということはできない。

だから意識的にしろ無意識的にしろ、少なからず脳のリソースは仕事以外の時間も仕事のことに割かれていた。

しかしもちろん新たな問題はある。将来の保障が何一つないことだ。

個人事業主という立場である以上、1年後の仕事ですらどうなるかわからない。

だから今は、日々いろんなことに挑戦する姿勢が重要なんだと思う。

公務員のままだったら、安定という椅子にあぐらをかいて座っていただろう。そういった意味でも、僕はやはりサラリーマンという働き方から脱却する必要があったのかもしれない。

家族について

これはかなりデリケートな部分だから言葉を慎重に選ぶ必要があると思う。

ともすると「家族を捨てた」とも受け取られかねない。

念のため言っておくが、もちろんそんなつもりはみじんもない。お互いに納得して決断したことだ。

ただ、やはり今でも家族は愛している。

一緒に暮らしてないから、多少は自分の時間が生まれたかもしれないけど、やはり孤独との戦いは苦戦を強いられている。

この孤独感にどう向き合っていくかが今後の課題だ。ゆえに解決策は模索中である。

モノについて

ミニマリストと聞いてまず思い浮かぶのは、持っている「モノ」が少ない人たちだ。

家族と暮らしていた頃、多分僕はマキシマリスト

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